演劇と道徳
舞台を見に行った。
大勢の大人が雁首をそろえて、ひたすらに迷走している喜劇だった。何度も脇道に逸れて、そのたびに意味のない議論を繰り返す。堂々巡りの展開。社会に出たら、会議などで意味もなく、こんなことを何度も繰り返すのだろうかと考えると、ひどく憂鬱になった。
ひたすら迷走に迷走を続けた物語は、終盤、ヒステリックな叫び声に乗せられた、合理的ではない綺麗事によって終焉を遂げた。なんの根拠もない。理想を夢見てもいいじゃないか? なんて、阿呆らしい。俺たちは現実に生きているんだ。地に足をつけてこそ上を見ることができるんだ。落下している最中に考えることは、過去の幸せな出来事ばかりだろう。
でも、社会はこんなもんらしい。
誰にも否定されない、否定することが悪とされる綺麗事の押し売り。綺麗事を否定しようもんなら、こちらの人格が否定される。
小学校の道徳の授業を思い出した。
この問題に答えはないと口では言いながら、その眼の奥では特定の答えを欲しがっている。
道徳とは、大人の欲しがる正しい答えを察知し、その通りに口や鉛筆を走らせることだと学んだ。
成長するにつれて、口をつぐみ、相手に合わせることで、物事を円滑に回す術を学んだ。
そう考えると、嫌いだった道徳の授業も、間違いなく義務教育に必要な内容だったんだと思う。今でも変わらず嫌いだけど。
世の中はそれが正解なんだろう。
帳尻合わせの散文
気分屋の文章
検定日とプロレス
忘れる癖
忘れっぽいのはいつものことで、思いついた端から忘れていきます。夜、眠ろうと布団にもぐってからの十数分は特に顕著です。瞼を閉じて視界を真っ暗にすると、様々な想像が頭の中を駆け巡ります。その時考えたことは何のとりとめもないことです。関連性のあるようで突拍子もないことについて連想ゲームのように考える忘れるを繰り返します。ぐるぐると頭を回し続け、思考の糸が切れ、暗闇に向かって意識が飛んでいきます。翌朝、何か考えていたなあという、ちょっとした充実感と共に目を覚まします。充実感はシャワーの湯気と共に霧散します。
面白いことを考えていたという自負はあるのですが、その内容がどうしても正式な記憶として取り出せないのです。眠るときに厳重に鍵をかけているのでしょうか。その引き出しが、昼間の友人との会話や、退屈な時間を持て余しているときに、ふと音を立てて開くときがあります。そのときは、フリーマーケットや古着屋で掘り出し物を見つけた時のように嬉しくなります。感動を無表情で噛みしめて、一点を見つめているので、人は急に止まった私に驚きます。少しだけ、申し訳ないです。
私の癖のひとつの解説でした。
GW最終日
本日、五月六日はGW最終日です。
皆さんが連休を思い思いに楽しんでいる間、サービス業はここが稼ぎ時と連勤漬けでございます。GoldenWorkです。おはようございます。
最近、アルバイトを始めました。
といっても三月の頭から飲食、末からサービス業の二足の草鞋でございます。
自分の時間が野口以下のはした金に変換されていくのは、言葉にすると物悲しいですが、労働後には充実感を感じることができます。このままでは大学生の貴重な時間を空費していき、学業にも支障をきたす可能性も多大にあり、大変危ういとは考えております。我ながら阿呆なことをしているとは思います。
私は酒と煙草を嗜みますが、この二つも似たようなもので、阿呆なことに時間と金を浪費していると思いながらも、そんな阿呆な自分を自覚し、愉しんでおります。
酒と煙草は乱暴に言えば薬物なので依存性があります。
なにかに依存する人は、強がりがちな人、自分を誇り切れない人、明日に絶望している人、過去を悔やんでいる人、緩やかに自殺したい人、泣けない人、色々です。
そんな人たちと友達になりたい。
そう思ったとに、酒や煙草は最強のコミュニケーションツールとなりえます。
武器は一つでも多いほうがいいでしょう? 僕は不器用なので。
自己紹介・美術鑑賞エッセイ「或るケモノ」
初めまして。安堂と申します。