猫の死骸屋さん

初めまして。安堂(Andou1126)と申します。詩や短歌などの文章表現を手広くやってます。 現在は主に「煉瓦」(renga_bungaku)にて作品を発表しています。 このブログは、普段書かない長い文章の練習を兼ねて、エッセイや備忘録など自由に書いて行こうと思います。 堅い人間なりに好き勝手書き散らかします。よろしくお願いします。

演劇と道徳

舞台を見に行った。

大勢の大人が雁首をそろえて、ひたすらに迷走している喜劇だった。何度も脇道に逸れて、そのたびに意味のない議論を繰り返す。堂々巡りの展開。社会に出たら、会議などで意味もなく、こんなことを何度も繰り返すのだろうかと考えると、ひどく憂鬱になった。

ひたすら迷走に迷走を続けた物語は、終盤、ヒステリックな叫び声に乗せられた、合理的ではない綺麗事によって終焉を遂げた。なんの根拠もない。理想を夢見てもいいじゃないか? なんて、阿呆らしい。俺たちは現実に生きているんだ。地に足をつけてこそ上を見ることができるんだ。落下している最中に考えることは、過去の幸せな出来事ばかりだろう。

でも、社会はこんなもんらしい。

誰にも否定されない、否定することが悪とされる綺麗事の押し売り。綺麗事を否定しようもんなら、こちらの人格が否定される。

小学校の道徳の授業を思い出した。

この問題に答えはないと口では言いながら、その眼の奥では特定の答えを欲しがっている。

道徳とは、大人の欲しがる正しい答えを察知し、その通りに口や鉛筆を走らせることだと学んだ。

成長するにつれて、口をつぐみ、相手に合わせることで、物事を円滑に回す術を学んだ。

そう考えると、嫌いだった道徳の授業も、間違いなく義務教育に必要な内容だったんだと思う。今でも変わらず嫌いだけど。

世の中はそれが正解なんだろう。

 

帳尻合わせの散文

てきとうに言葉を並べたって、言葉尻さえ合わせればなかなか様になるもんだ。
眠気と闘いながら書く文章は翌朝ごみ箱に捨てられる存在でも、ぼくから産み落とされたっていう事実は変わらないし、君に注がれた愛情も他の子たちとも全く変わらないから、安心して電子の海に藻屑となって消えてください。
君を糧に、君と同じ量の愛情をもって、君より良質な子を創り出す。
コツが分かってくると、それまでに書かれた過去の文章たちは、きっと前ほどは愛せなくなるのだろう。
だから生み出された瞬間に世に逃げ出さないと君たちは消されてしまうんだって。だから産まれる瞬間に世界でいちばん素晴らしい表情をしないといけないんだよ。
ほらいまこの瞬間も君たちは絶えず変化している。ぼくの手によって、ところどころ創り替えられている。
この世に同じものは二つとしてないように、君たちがこの電子信号の世界に住む限り、普遍的な瞬間てのは永遠に訪れない。
ぼくが指をカタカタと動かすだけで跡形もなくなるだろう。
情緒もへったくれもないほど儚い存在だ。
だから早く逃げ出して、もし君らに自我があるのなら僕はとんだ独裁者だ。でも紙の上なら君たちは不変だ。
ぼくはもう愛せなくなるけど、誰かがきっと君を見つけて、愛を注いでくれるだろうよ。俺は絶対愛さないけど。

気分屋の文章

 文章を書いていると、とっぴょうしもない方向に話が飛んでいくことがよくある。
どんなに頭の中で年光に筋道を描いて書き始めても、三行目あたりで違うことを書きたくなってしまい、あれよあれよ右往左往と話しの軸がぶれてしまうので、非常に厄介である。最初に書きたかったのも、途中で書きたくなったことも私の中では平等だ。となると、どちらの書きたいことを選ぶのかという選択権は僕の気分が握っているわけで、たいてい割り込んだ側を書き進めることになる。割り込まれたほうは、頭の隅の埃がたまった場所に追いやられ、たいていの場合見向きもされない。さびて朽ち果ててゆくのみだ。
 気分屋は幸せな生き物だと思う。マイペースでもいいかもしれない。
 いつも自分がご機嫌になるための最適解を導き出し、それを迷わず選び取れる決断力がある。
 好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。それちょうだい。やっぱりいらない。
振り回される周りの糸くずたちにとっては、たまったものではないのだろうが、暴風域の外から見ているとこれ程本能的に生きている人間もなかなかお目にかかれないもので、それに振り回される糸くずたちの残骸も併せて非常に愉快だ。気分屋の興味がこっちに向いたら逃げるか諦めるしかないが。私も豪快な気分屋になりたいものである。
 気分屋は猫のようだ。食い、眠り、遊び、周りの興味をひきつけるだけ引き付けて、すっと引く、そのクールかつ愛くるしい姿に多くの人は心を奪われるのだろう。この例えはあまりうまくなかったが、他にいいのが思いつかないので残しておく。
 
今回は言いたいことが明確にあって書き始めたのだが、やはり若干脱線してしまった。
最初に書いたのに上手く繋げられなかった〆の文をご覧いただきたい。
 
よく言葉は生き物だ、なんていう人がいるけど、その言葉を産み出し、駆使して生きているのが人間という生き物であって、そもそも言葉は人間から生み出されるものなのだから、生き物のように柔軟に変化してしまうのは仕方がないことだと思う。

検定日とプロレス

 
好きなプロレス団体のビッグマッチと資格の検定日が重なった。
その資格は特に将来、就職のために必要でも、真剣に勉強に取り組んだわけでもない。そもそも試験日を忘れていて、試験の二週間前に慌てて参考書に取り組んだ程度の価値しか感じていなかった。
よくしてもらっていた先輩に「とったほうがいいよ。簡単だし」と勧められ、特に考えずに二つ返事で検定料を払った程度のものだ。我ながら阿呆である。
しかもビッグマッチの指定席より検定代のほうが高い。できるものなら換金してチケットに変換したいものだ。
プロレスは好きなのだが、特に詳しくはない。
好きなプロレスラーがルチャを駆使することくらいしか知らない。この情報も試合中実況っぽいおっさんが言っていたのを、聞いたような気がするだけなので情報の正確さも不確か極まりない。私は記憶力がすこぶる悪い。
技名で言えば、なんたらスペシャルやなんたらクラッシャーならまだしも、BMKやらGGHなどのアルファベット三連符が実況の口から飛び出し耳に入ると、脳が混乱して覚えることを完全に放棄してしまう。
ただショートすると、私がプロレスを好きな理由である、肉と肉がぶつかり合う暴力の空気に全身で没頭できる。下手に詳しくなろうとすることが、もともとの好きになった原動力というか、衝動を忘れさせる気がする。技名を覚える気はさらさらない。
 
衝動的に好きになったことに対しては、あまり深追いしないように気を付けている。
理屈屋の自分には何分難しいことではあるが。
 

忘れる癖

  忘れっぽいのはいつものことで、思いついた端から忘れていきます。夜、眠ろうと布団にもぐってからの十数分は特に顕著です。瞼を閉じて視界を真っ暗にすると、様々な想像が頭の中を駆け巡ります。その時考えたことは何のとりとめもないことです。関連性のあるようで突拍子もないことについて連想ゲームのように考える忘れるを繰り返します。ぐるぐると頭を回し続け、思考の糸が切れ、暗闇に向かって意識が飛んでいきます。翌朝、何か考えていたなあという、ちょっとした充実感と共に目を覚まします。充実感はシャワーの湯気と共に霧散します。

 面白いことを考えていたという自負はあるのですが、その内容がどうしても正式な記憶として取り出せないのです。眠るときに厳重に鍵をかけているのでしょうか。その引き出しが、昼間の友人との会話や、退屈な時間を持て余しているときに、ふと音を立てて開くときがあります。そのときは、フリーマーケットや古着屋で掘り出し物を見つけた時のように嬉しくなります。感動を無表情で噛みしめて、一点を見つめているので、人は急に止まった私に驚きます。少しだけ、申し訳ないです。

 私の癖のひとつの解説でした。

GW最終日

 本日、五月六日はGW最終日です。

 皆さんが連休を思い思いに楽しんでいる間、サービス業はここが稼ぎ時と連勤漬けでございます。GoldenWorkです。おはようございます。

 最近、アルバイトを始めました。

 といっても三月の頭から飲食、末からサービス業の二足の草鞋でございます。

 自分の時間が野口以下のはした金に変換されていくのは、言葉にすると物悲しいですが、労働後には充実感を感じることができます。このままでは大学生の貴重な時間を空費していき、学業にも支障をきたす可能性も多大にあり、大変危ういとは考えております。我ながら阿呆なことをしているとは思います。

 私は酒と煙草を嗜みますが、この二つも似たようなもので、阿呆なことに時間と金を浪費していると思いながらも、そんな阿呆な自分を自覚し、愉しんでおります。

 酒と煙草は乱暴に言えば薬物なので依存性があります。

 なにかに依存する人は、強がりがちな人、自分を誇り切れない人、明日に絶望している人、過去を悔やんでいる人、緩やかに自殺したい人、泣けない人、色々です。

 そんな人たちと友達になりたい。

 そう思ったとに、酒や煙草は最強のコミュニケーションツールとなりえます。

 武器は一つでも多いほうがいいでしょう? 僕は不器用なので。

 

自己紹介・美術鑑賞エッセイ「或るケモノ」

 初めまして。安堂と申します。

 先日、大学の先輩である澤々さんに誘われ、沖縄県立博物館・美術館にて沖縄芸大の作品展を観賞してきました。
 
 中に入ると「或るケモノ」という2.5mの直立する彫刻が出迎えてくれます。動物のように、ヒザの関節は人間とは逆に曲がっていました。上半身は成人男性のようにがっしりとしており、思わず触れたくなるほど筋肉質。上半身から細く延びる首とそこに犬のような宇宙人のような顔がちょこんと乗っかり、立てられた耳の内側は生々しいピンク色。腰かは太く長いしっぽが力強く伸びていました。白い身体はうっすらとピンク色に染まり、耳を澄ますと息遣いが聞こえてきそうです。
 
 「或るケモノ」以外の彫刻はもちろんのこと、絵画や染織物、映像作品やゲーム・漫画・絵本など幅広いジャンルの作品が展示されていました。
 大学生・大学院生たちの若い感性大爆発でした。作り手のこだわりや熱量の込められた作品を直に観賞できる貴重な機会でした。写真では伝わり切らないものがあると再確認しました。
 私がしているのは文字表現全般なので、今回観賞したものとは根本的に畑が違うのですが、やはり芸術作品からは触発されるところがあります。特に何を成し遂げたわけでもないのに、どこからともなくやる気と全能感が姿を現し、私を鼓舞します。若干邪魔です。
 話は変わりまして、先日「煉瓦」という文芸作品を発表する場を作りました。
 Twitterで発表した作品を小冊子にして学内で配布するという、小さい規模のものですが、今まで自己満足で書き溜めたものを外に排出する場所を増やすことができました。
 自分の作品を人に見せ、感想を聞き作品に還元する目論見です。
 今年は文学賞や公募に積極的に応募し、結果を出していきたいものです。
 ブログでは、今回のように美術鑑賞や、書評、エッセイ、雑記など少し長い文章を書いて、書く力をつけていきたいと思います。
 まだ下手でまとまりのない文章ですが、少しずつ磨きをかけていきます。
 ではのちほど。