演劇と道徳
舞台を見に行った。
大勢の大人が雁首をそろえて、ひたすらに迷走している喜劇だった。何度も脇道に逸れて、そのたびに意味のない議論を繰り返す。堂々巡りの展開。社会に出たら、会議などで意味もなく、こんなことを何度も繰り返すのだろうかと考えると、ひどく憂鬱になった。
ひたすら迷走に迷走を続けた物語は、終盤、ヒステリックな叫び声に乗せられた、合理的ではない綺麗事によって終焉を遂げた。なんの根拠もない。理想を夢見てもいいじゃないか? なんて、阿呆らしい。俺たちは現実に生きているんだ。地に足をつけてこそ上を見ることができるんだ。落下している最中に考えることは、過去の幸せな出来事ばかりだろう。
でも、社会はこんなもんらしい。
誰にも否定されない、否定することが悪とされる綺麗事の押し売り。綺麗事を否定しようもんなら、こちらの人格が否定される。
小学校の道徳の授業を思い出した。
この問題に答えはないと口では言いながら、その眼の奥では特定の答えを欲しがっている。
道徳とは、大人の欲しがる正しい答えを察知し、その通りに口や鉛筆を走らせることだと学んだ。
成長するにつれて、口をつぐみ、相手に合わせることで、物事を円滑に回す術を学んだ。
そう考えると、嫌いだった道徳の授業も、間違いなく義務教育に必要な内容だったんだと思う。今でも変わらず嫌いだけど。
世の中はそれが正解なんだろう。