気分屋の文章
文章を書いていると、とっぴょうしもない方向に話が飛んでいくことがよくある。
どんなに頭の中で年光に筋道を描いて書き始めても、三行目あたりで違うことを書きたくなってしまい、あれよあれよ右往左往と話しの軸がぶれてしまうので、非常に厄介である。最初に書きたかったのも、途中で書きたくなったことも私の中では平等だ。となると、どちらの書きたいことを選ぶのかという選択権は僕の気分が握っているわけで、たいてい割り込んだ側を書き進めることになる。割り込まれたほうは、頭の隅の埃がたまった場所に追いやられ、たいていの場合見向きもされない。さびて朽ち果ててゆくのみだ。
気分屋は幸せな生き物だと思う。マイペースでもいいかもしれない。
いつも自分がご機嫌になるための最適解を導き出し、それを迷わず選び取れる決断力がある。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。それちょうだい。やっぱりいらない。
振り回される周りの糸くずたちにとっては、たまったものではないのだろうが、暴風域の外から見ているとこれ程本能的に生きている人間もなかなかお目にかかれないもので、それに振り回される糸くずたちの残骸も併せて非常に愉快だ。気分屋の興味がこっちに向いたら逃げるか諦めるしかないが。私も豪快な気分屋になりたいものである。
気分屋は猫のようだ。食い、眠り、遊び、周りの興味をひきつけるだけ引き付けて、すっと引く、そのクールかつ愛くるしい姿に多くの人は心を奪われるのだろう。この例えはあまりうまくなかったが、他にいいのが思いつかないので残しておく。
今回は言いたいことが明確にあって書き始めたのだが、やはり若干脱線してしまった。
最初に書いたのに上手く繋げられなかった〆の文をご覧いただきたい。
よく言葉は生き物だ、なんていう人がいるけど、その言葉を産み出し、駆使して生きているのが人間という生き物であって、そもそも言葉は人間から生み出されるものなのだから、生き物のように柔軟に変化してしまうのは仕方がないことだと思う。